【札幌】進路を塞ぐ街路樹は如何にしてそこに在るのか?

札幌さんぽ

前回の投稿から一週間も過ぎてしまったが、今回はとりあえず、くだらない前置きを無しにして、記事のサムネイル画像に注目してほしい。これは札幌市中央区の南6条西7丁目の道路脇に立っている街路樹だ。

サムネイル画像では少しわかりずらいかもしれないが、この街路樹はとても大きい。どれくらい大きいかと言えば、幹は太く、背丈はその周辺の街路樹と比べても2倍は高い。おしまいには、片側2車線の車道のうち1車線の殆どを侵略し、交通の導線を塞いでしまっているのだ。

多くの人は、というか少なくとも俺は、この木を最初に見た時に、「何故わざわざ、車道の導線の一部を塞いでまで、こんなに大きな街路樹を立てているのだろうか?」「無い方が明らかに車に優しいよね」と疑問を抱いた。

というわけで今回はこの道路を塞ぐ巨木の生い立ちを調査してきたので、その結果を記事にまとめることにする。

この街路樹の概要

木とその周辺

先にも書いた通り、この木は札幌市中央区の南6条西7丁目に立っていて、車道の片側2車線の半分を全て塞ぐほど存在感がある。その異様さを改めて写真で観察して見よう。と思ったけど相変わらず撮影センスがなくてイマイチ迫力のない画像ばかりだ。

まずは北側の交差点から撮影。件の木は交差点を越えてすぐの場所に立っているのがわかる。

こういう立地なわけだから、交差点をクリアした車はすぐに、あるいは事前の車線変更を強いられる。とても通行に優しくない。

今度は少し接近してみる。そうすると、木の本体が大きく車道にのめり込んでいるのが確認できる。

今度は反対側の歩道に渡って、木の大きさを確かめる。

こうしてみると木そのものの大きさが、写真でもかなりはっきりわかると思う。すぐ左隣にある街路樹が写真の画角にきちんと収まってるのに対して、件の街路樹は画角を大きくはみ出ている。この大きさを画角に収めるのは結構大変。被写体から距離を離してみたり、画角を超広角に切り替えたりして色々チャレンジしたものの、最終的には以下の写真が限界だった。

上部の葉の部分がやっと写りはしたが、一番てっぺんまで画角に収めるのは諦めた。

繰り返しにはなるが、この大きな街路樹がわざわざ車線の1つを塞いでまで立っていることが、俺にとっては何だか不思議でしょうがないのだ。

木の種類

調査にあたって「この木なんの木?」という疑問の解消は欠かせないと思ったので、特定してみた。結果的には「楡(ニレ)」の木で間違いなさそうだ。

なぜそう言えるのか?

まずは葉の形状に注目する。この画像は、木のすぐ側に落ちていた落ち葉を撮影したものだ。

これをよく観察して見ると、葉のシルエットは楕円に近く、外周が「鋸歯」といわれるギザギザの形をしている。また、先端部分が鋭く尖っている。葉脈は真っ直ぐ太い線が根本から先端に伸びていて、そこから外周に向かって直線上に枝分かれしている。この特徴はニレの葉の特徴と一致する。

次に、かなりわかりずらいが同じく枝の写真。

上で書いた特徴と一致する葉が無数に生えているのが確認できる。

注目すべきは、枝から葉がどのように生えているか。枝から葉が1枚ずつ、交互に別方向に向かって生えているものを「互生(ごせい)」という。これとは別に、同じ部分から2枚の葉っぱがそれぞれ別方向に生えているのを「対生(たいせい)」という。

ニレの枝は互生の特徴を持つが、これも件の街路樹の特徴と一致している。

更に今度は樹皮に注目する。

縦に細長い鱗状の樹皮で、これは専門家の間では「短冊状」と呼ばれているらしい。こちらもニレの特徴と一致。

故に、この木の種類はニレで殆ど間違いなく、更に言えば、北海道でニレといえばハルニレが一番メジャーらしいので、こちらもハルニレの可能性が高い。(後半は殆ど憶測ではあるけど)

というわけなので、今回の記事の中では、このニレのことを便宜上「ニレ67」と呼ぶことにする。(67は南6条西7丁目という住所から)

ニレ67の周囲の街路樹

南6条西7丁目とその近辺に立っている街路樹は、ほとんどがイチョウかプラタナスで、むしろニレは件の「ニレ67」以外には存在しないと言っていい。だからこそ、ぽつんと1本だけがとても大きなニレの木なのが、更に異様な光景というわけだ。

プラタナスの木

札幌市内の街路樹

進路を塞ぐ街路樹は実はそんなに珍しくない

「街路樹」といわれて想起するイメージは、まず直線的(あるいは曲線的)に敷かれた道路があって、その両端のところに、ちょうど道路の縁石の線に沿って並んで木が立っているイメージだと思う。これが街路樹における「規則的」な配置として、少なくとも日本では一般的に想起されるだろう。

札幌市もその例から漏れないことは、以下の風景写真より確認することができる。

この画像はすすきの「月寒通」で撮影した一枚。車道の外側に沿って一直線に樹木が立ち並んでいることがわかる。

更にもう1つ例を挙げよう。下の画像は同じく札幌市の西13丁目付近で撮影したものだ。

写真の奥の方まで、道路の縁石に沿ってきれいに樹木が立っていることがわかる。

以上の例から、街路樹は原則的に道路のわきにぴったりくっついて、車や歩行者の導線を遮らないように配置されるという「規則性」があるものだということが確認できる。

街路樹を道に植える風潮は、北海道では少なくとも大正時代から存在していて、その当時の写真でも、上記の写真と同じく「規則性」の上に植えられていることが確認できた。

通行の利便性の観点から、街路樹を植えるならば上記のような「規則性」に従って植えるのが一番合理的なはずなんだ。

しかし、現実には上記の「ニレ67」のような例外も存在している。このような例外が札幌市内では「ニレ67」しか存在しないのかというと、実はそんなこともない。「ニレ67」のように「進路を遮る街路樹」は、以外にも札幌中心部の市街地に数多く存在する。

例として下の画像を見てほしい。

これは上の画像と場所が殆ど同じ、大通西13丁目付近で撮影した街路樹だ。立っている場所が歩道のど真ん中で、歩行者の導線を大いに遮っている。黄色い点字ブロックが木の場所を避けるかのように敷かれていて、この木の存在感をとても顕著に表している。

更に以下の画像も、同じような大通西13丁目付近で撮影した街路樹だ。

歩道自体の幅は結構広めにとられているようにみえるが、手前の木のある場所に限っては、右側のわずか1/4程度の幅しか残っていない。奥に見える巨大な街路樹も、歩道のど真ん中に位置していて、歩行者はその両脇の狭いスペースを通行するほかにない。その割には反対車線側の歩道では、街路樹の配置は上で書いたような「規則」に沿った配置になっている。

これは後から調べてわかったことなんだけど、上の写真やニレ67をはじめとした、道路敷地内に生えている大きな木は、札幌市が「シンボル樹木」と命名していて、2002年の調査では札幌市中央区だけで約200本もの「シンボル樹木」が発見されたようだ。

データが20年前とかなり古いことや、そもそもその200本すべてが道路や歩行者の進行を妨げるように立っているとも限らないので、2023年の現実ではおそらくもっと数を減らしているように思える。

とはいえ、先に掲載した例が示す通りいずれにせよ札幌市中央区だけを切り取ってみても、こういう感じの巨木は割と珍しくない程度には存在するわけだ。

また、札幌市以外の道内の地域では、夕張群栗山町の「泣く木」や、恵庭の松園通りと呼ばれている通りの「御神木」と言われているハルニレの木が有名。どちらもすぐ横を通る道路自体が、木を避けるようにしてぐにゃっと不自然に曲がっている。

そして、例を2023年現在に限定しなければ、札幌市で最も有名な巨木は「チャチャニレ」と呼ばれていた、かつて中央区に存在していたハルニレだろう。

「チャチャニレ」とは?

現在北菓楼の札幌本店が位置する場所のすぐ目の前にそびえ立っていた「ハルニレ」の巨木だ。

樹齢はなんと400年~500年程度と推測されていたそうだ。そのことから、アイヌ語で「長老」を意味する「チャチャ」という言葉が付け加えられ、「チャチャニレ」の愛称で市民から親しまれていたようだ。

当時この「チャチャニレ」の木の下にはベンチが置いてあって、そこに座って読書をする人がいたり、知り合いと待ち合わせをしたりする人がいて賑わっていたようだ。

また、周辺に道路が舗装されて水が涸れそうになると、水飲み場が設置されて、生命を維持させ続けるほど、大切に扱われてきた。

そしてこのチャチャニレも「ニレ67」と同じで車道のスペースを侵害するレベルの存在感でそびえ立っていたのだという。

ところが、60年代に木の老朽化が無視できないレベルで深刻になり始めた。市民からは「延命」するよう声が上がり、札幌市もなるべくそれに応じてはいたものの、倒壊の危険性や、周囲の安全性を考慮した結果、残念ながら1967年に伐採されてしまったようだ。

ちなみにこの北菓楼の店舗となっている建物は設立当初、北海道唯一の図書館だったようだ。

そこから美術館に生まれ変わり、2010年代に現在の北菓楼札幌本館となった。北菓楼に関しては過去に記事を書いているので興味があれば参考にしてほしい。

【札幌】北菓楼のカフェは30分越の待ち時間に注意。平日昼間でも結構待つ。

木が進路を遮る理由

俺が現在知る中で、木が進路を遮るようにして立ってしまっている理由には下記のような種類がある。

  1. オカルト的な伝承、いわくがある。
  2. 単純な自然保護目的。
  3. かつて私有地内にあった木が、区画整備を繰り返して道路敷地にはみ出た。
  4. 伐採技術の不足
  5. 自治体の特例などにより、伐採が禁止されている。
  6. 歩道の拡張工事が後から行われた。

1に関しては、上でも書いた「泣く木」と恵庭の御神木が例として挙げられる。どちらの木も、道路の開発の際に作業員が切り倒そうとしたところ、その本人が大事故にあったり不幸が降りかかったりということが頻発したらしい。この状況を「祟り」と判断して伐採を断念し、道路そのものを木のために捻じ曲げて敷いたとのこと。

2は、これも上で紹介した「チャチャニレ」が代表的。市民からとても親しまれている等の理由で、自治体がその状況に応えるように木を保護するよう努力している。

3は少し特殊で。これは大阪市の「クスノキさん」と呼ばれている楠を例に挙げることができる。この楠は元々寺院の境内に生えていたのだが、道路の拡張工事を行った結果、その道路の真ん中に飛びだすように立つことになったそうだ。この工事の際に境内は縮小したが、何らかの理由で楠を伐ることができず、そのまま保存することになったのだろう。

4は数百年も前の、まだテクノロジーがそれ程発展していないころに、大木を伐採するのに十分な技術がなく、そのまま大木を保存せざるを得ない状況であったこと。

5は100年以上前の札幌で実際に発令されていた。これはかなり重要な例なので後で説明する。

6は札幌市内に実際に例がある。こちらの画像を見ていただきたい。

これはつい数か月前にオープンしたばかりのモユクサッポロ周辺で撮影した写真だ。

一見すると画像に映っている白い木(プラタナス)は歩道のど真ん中にあるが、よく見るとこれを境にして左右で舗装が違っている。というか明らかに右側のアスファルト部分の歩道は後から増設されている。

このように当初は「規則的」に立っていた気も、歩道の増設により後に「規則的」から外れた街路樹があることも、今回の調査でわかった。

「ニレ67」のルーツをたどる

では結局のところ、この記事の課題としている「ニレ67」はなぜあのような立ち方をしているのか?上記の6つの理由の中のどれかなのか、はたまた全く違う事情があるのか?この結論を出すために、まずニレ67がいつ頃からそこにあるのかを調査することにした。

航空写真からのアプローチ

国土交通省 国土地理院というWEBサイトが、過去に遡った航空写真を閲覧できるサービスを展開しているのだが、これがかなりすごい。数年前どころか、昭和や下手すれば大正時代くらいまで遡って航空写真を確認することができる。

このサービスを使って、ニレ67がおよそ何年前くらいから存在しているのか調査した結果、1945年の時点で既に存在していたことがわかった。はるか上空からでも、その大きな存在感によってしっかりと存在を認識することができる。

では1945年以前はどうなのか?気になったのだが、どうやら航空写真のリソース自体が1945年あたりで切れてしまっていて、それよりも過去に遡ることができなかった。

とはいえ、ひとまずこのアプローチより約1945年頃に既にニレ67は同じ場所に立っていたことがわかった。

昭和以前にあったもの

航空写真という非常に強力なツールが使えなくなってしまったので、次に注目したのは「1945年以前にニレ67の周囲にあった物」だ。

この物というのは主に建物なわけだが、なぜそんなことに着目したかと言えば、先に書いた「木が道を遮る理由」の中の3(かつて私有地内にあった木が、区画整備を繰り返して道路敷地にはみ出た)がもしかすると当てはまるかもしれないと思ったからだ。

つまり、ニレ67のあった場所は元々南6条西7丁目に立っていた何かしらの施設の私有地で、道路拡張や区画整備の繰り返しにより道路敷地に飛び出てしまったのではないかと仮説を立てたのだ。

そして、ニレ67がその施設内で自然に生えたにせよ、後から植えられたものにせよ、その施設の記念として今まで保存され続けているのではないか?

というわけで俺は札幌中心地の市街地が概ね出来上がった明治の初期から、昭和の初期にかけてまでの札幌の古地図をあさりまくった。その結果、この南6条西7丁目の土地には、かつて以下の建物があったことがわかった。年代別にそれぞれ見てみよう。

開拓使の時代(明治初期):更地

札幌の地に開拓使(北海道を開拓するためのお役所のようなもの)が置かれ、札幌市街地の開発が本格的に始まったのが明治2年(1869年)の頃。

当然ではあるが、開拓当初の札幌中心部の大部分は更地で、これは南6条西7丁目も例外ではない。

しかし、翌年の明治3年には南7条西8丁目の場所に東本願寺が置かれ、これは2023年の現在まで全く同じ場所に残っている。

明治5年頃の古地図を見ると、既に札幌の中心部では現在と殆ど違わないレイアウトで碁盤目状の道路と区画が整備されていることが確認できる。しかし、当時の民家・役所・作業場などは主に東側の創成川、または現在でいう旧北海道庁・JR札幌駅あたりに密集していたため、東本願寺周辺に殆ど建物はなかったようだ。つまり道路だけが整備された手つかずの地の中に、ぽつんとお寺だけが建っていたのだと思われる。

ニレの木は樹齢が数百年を超えることも珍しくないから、この当時には既にニレ67は生きていたのかもしれない。

明治39(1906)年~大正11(1922)年:北海高等女学校

明治32年(1899年)、南6条西7丁目の区画の土地を、東本願寺が購入。そこから明治39年(1906年)、同じ場所に「私立北海女学校」が創立。経営母体はおそらく東本願寺だったと思われる。初代校長の「清川円誠」は元々僧侶だったが、所属している宗派の間でひと悶着あったようで、教育系の職業に移ったらしい。

この北海高等女学校は大正11年に、校舎を現在でいう北16条東9丁目に移転した。

これは余談にはなるんだけど、2023年現在に北16条東9丁目には何があるかというと、「札幌大谷中学校・高等学校」が存在する。実は北海高等女学校は現在の大谷学校のルーツでもあるんだ。なぜ名前が「大谷」なのかというと、オーナーである東本願寺の宗派が「真宗大谷派」であることに由来していると思われる。

俺はこの北海高等女学校に関係する古い写真に、もしかするとニレ67の姿が偶然にも映っていたりしないか?ということを期待して、当時の校舎に関する写真を図書館などで探し回った。しかし、結局のところただの1枚も見つからず、ニレ67が明治から存在していたかどうか、何もわからないまま終わってしまった。

昭和元年前後?(時期不詳)~昭和6年頃:アソヅヤ森下眼鏡商店

北海高等女学校の校舎が大正11年に移転したあと、南6条西7丁目の土地がオーナーから手放されたかどうかは不明だが、昭和4年(1929年)の地図を見てみると、個人商店と思われる建物がぽつぽつと出現していた。

この地図によれば、ニレ67のあったすぐ傍には「森下眼鏡テン」という商店が建っていたようだ。更に別のシートに、当時の札幌市街に存在する商店の一覧リストが載っていて、そこには「アソヅヤ森下眼鏡商店」という、「森下眼鏡テン」の正式名称が記載されていた。

俺はこの眼鏡屋さんのことを調べれば、ニレ67の手がかりや当時の写真が見つかるかもしれないと思って、検索キーワードをこねくり回しながら検索エンジンで検索してみた。しかし、これまた但の1つも有力な手掛かりが見つからなくて、ニレ67に関しては何もわからずに終わってしまった。

ちなみに、これは完全な余談だけど、森下眼鏡店とは別に、現在の狸小路2丁目のあたりに「アソヅヤ眼鏡店」という商店が同じころに存在していたようだ。名前がかなり似ているが、この2つの商店の関係性は全くもって不明。アソヅヤ眼鏡店自体はおそらく現存していないが、経営元の会社はなんと今でも存在する。そして驚くことに、それは2023年現在に突如狸小路に現れた「空き地」のオーナーとのことなのだ。

昭和6年~2014年頃:不明(たぶん民家)

上記の森下眼鏡店だが、昭和6年の地図には同じ場所に記載がなく、この2年間の間で移転したか、または閉店したのかわからないが、いずれにせよ昭和6年の時点では存在していなかったようだ。

では代わりに何があったのかというと、これが地図には何の記載もなかったので、何もわからなかった。

とはいえ1945年頃の航空写真には既にニレ67の姿は確認できたし、あれ程の巨木が突如出現するというのはかなり考えづらいから、おそらく森下眼鏡店の時代には既にニレ67自体は存在していたのはないかと推測している。

1つ分かったことを挙げよう。昭和30年(1955年)頃の東本願寺周辺の写真を見つけたので、拝見してみたところ、当時の道路は今のように歩道・車道、そして片側2車線という整備の仕方をされておらず、通行も歩行者がメインで自動車は見受けられなかった。これは何が言いたいかというと、通行しているのが殆ど歩行者なので、ニレ67のような巨木が道端に存在していても、些かも通行に差し支えないし、伐採のメリットも特にないので、そのまま放置されていたのだろうという事だ。

現在のようなアスファルト舗装の車道が整備されたのは、航空写真を見る限り70年代に入ってからのようだ。当時から片側2車線通行だったのかは写真からは読み取ることができない。しかし、その時点でニレ67が現在のように車道に大きくはみ出していた事実は見受けられる。

この70年代の際になぜニレ67は残されたのか?これが大きな課題となるが、これに関しては調査の過程で俺なりの結論を導き出したので、後でそれを述べるとする。

結局ルーツはどこにあったのか?

昭和以前の南6条西7丁目周辺の写真などの有力な資料が全く見つからず、結局のところニレ67が何時からそこにあるのかは解明することができなかった。

とはいえ重要なのはルーツではなく、ニレ67が道路や区画整備の繰り返しを乗り越えて、なぜ保存され続けたのか

一番の課題は1970年代の道路整備の際に、あえてニレ67を保存した意図なのだが、これも資料が見つからず、完全に調査が手詰まりになってしまった。

ところで、俺はこの時ふと「チャチャニレ」がなぜ1967年まで保存され続けていたのかが気になった。そして、その調査をする中で、チャチャニレとニレ67の境遇がとても似ていることに気づき、ある1つの結論を導き出した。結論というより、実際はただの推測に過ぎないんだけど、現状俺の中で一番しっくりくる説なので、書いていこうと思う。

ニレ67とチャチャニレの保護理由は同じ事情

これを説明するためには、まずもう1度、明治2年の札幌開拓の時代まで遡り、当時の街の状況を説明しなければならないだろう。

明治2年に開拓使が行われた際に、当時の政府の役人には次の悩み事があった。

  1. 札幌の人口急増によって、森林の資源が急速に減少している
  2. 上記1に伴う水害など、自然災害の発生の懸念

簡単に言えば「むやみに自然の樹木を伐採していれば、そのうち良くない状況を誘発する」という認識が当初からあったというわけだ。

これを踏まえて、開拓使は札幌を含む周辺の各村の役人に原則的に樹木の伐採を禁じた。仮に伐採の必要性があったとしても、開拓使の許可が必要で、そう簡単には伐採できなかったようだ。

それで、これが俺の推測なんだけど、チャチャニレやニレ67は既に存在しており、この伐木禁止令によって保護されたのだ。ニレ67の樹齢はわからなかったけど、チャチャニレは樹齢が400年を超えていることが推測されているから、おそらく明治の時点で存在していた。それどころか、この2つのみならず「シンボル樹木」と札幌市から認定されている200本あまりの巨木も、この伐木禁止令によって保護され続けてきたのだろう。

それからしばらくして、開拓使は廃止され、札幌の市街地はどんどん開発が進んでいくわけだが、当時の住民たちはこのチャチャニレをはじめとする巨木たちを伐採することに、何かメリットを感じただろうか?おそらくその答えはNoだ。

チャチャニレに関しては、北菓楼の店舗が図書館だったころから市民に親しまれてきた存在だから、わざわざ伐採するのは惜しい。わざわざ水飲み場まで作って、道路が木を避けるようにして敷かれたりするくらい、大切に扱われてきたのだから。ニレ67に関しても、周辺を通るのは歩行者しかいないわけだから、わざわざ伐採するメリットがないどころか、ランドマークとして機能していたまである。

というか、仮にそうじゃなかったとしても数百年とそびえ続ける巨木を、生活のためにむやみに伐採すること自体気が引けたのだろう。チャチャニレに関しては老朽化による危険性が謳われてからも、延命手段を検討される程に大切にされてきたのだ。

そして、ニレ67に関しても、というか市内に存在する200本もの巨木すべてが、明治の伐木禁止令をきっかけに、チャチャニレと同じくらい大切に扱われてきたのではないだろうか。

すべての始まりは、開拓使による自然を大切に扱う精神だったというわけだ。

ニレ67がどれくらい市民からの愛着を買っていたかは正直分からないけど、札幌市は「シンボル樹木制度」なんてものを作ってまで市内の大きな木を保護しようと考えているのだから、やはりニレ67にしても、他の200本あまりの巨木にしても、街は大切に取り扱い続けているというわけだ。

結論としては上記の「木が進路を遮る理由」の中で挙げた理由2が一番当てはまるという事だ。

終わりに

最終的にはかなりのガバガバ考察になってしまったけど、現状の俺の力で導き出せる結論としては、これ以上に有力なものはない。というかこのニレ67のためだけに1週間以上もの調査時間を費やしてとても疲れてしまったので、いい加減沼から抜け出さないと取り返しのつかないことになりそうだ。

ところで、この調査の間俺はこの記事で取り上げた「ニレ67」を二度見に行った。

二度目は殆ど調べものの終わったころの時期に見に行ったんだけど、初めて見つけたときとは全く違う印象を感じた。というわけで、貴方にもその姿をもう一度観てもらう(強制)。

最初見つけたときは「なんでこんな邪魔な立ち方してるんだ?」程度に思ってたわけだが、調査を進めるうちに、徐々に愛着がわいてきたのだ。最終的には、俺はこの巨木の事をとても尊敬するに至った。なんだが大きなエネルギーというかおそらく樹齢100年を超えているだろう生命に対して、とても神秘を感じる。

札幌の発展を開拓の当初から見守り続けてきたであろう「ニレ67」に大きな敬意を。そしてこれからも札幌市や住民に大切にされながら、激しく塗り替わり続ける札幌の街並みを見守り続けてほしいと思った。

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