とある本を読んでて知ったんだけど、今から約10000年前くらいに、西洋の地中海周辺に文明があって、そこの人たちは小麦やぶどうやナスやレタスを栽培したり、羊から乳を取ったり、それらをパンやチーズやバターにして食べていたという。
それから9000年くらい時がたって、人々は王や政権や法と言われるものたちの下で集落をつくり、そこをインフラの整備をして、商売や農業をやりながら発展させていった。この集落を「ポリス」と言って、今でいう国の前身的なものだ。
こういった歴史が示すように、集落・街・国などが形成されるには、「そこに人が集まること」が条件になるはずだ。人が集まり、知恵を出し合って文明や技術を発展させることで、その中の決まった秩序がそのまま集落になる。
・・・しかし、札幌の街中にはこの考え方を、まるでちゃぶ台を裏からひっくり返して壊すような不思議な街が存在する。
それが今回取り上げる「東区雁来町」だ。
ちなみに以下の記事で「気になるスポット」と言ってたのがココ。満を持して記事を書く。
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「雁来町」の概要
この町は札幌市東区にあって、JR苗穂駅からやや東に存在している。
郵便番号は065-0000。0が4つのなんとも美しい並び。
ちょうど東区と白石区の境目のギリギリのあたりが「雁来町エリア」なんだけど言葉で説明するより地図を見た方が理解も捗るだろうからGoogleMapで確認してみよう。
これが東区雁来町だ。赤の破線で囲われている部分が地区の”全域”になっている。
何かおかしい。地図をみて「街もなにも、赤線で囲われてるところなんて川辺の緑の原っぱ以外にないじゃないか。草木の住む町は一般に”草原”と呼ぶのを筆者は知らないのか?」と思った人は多いだろう。しかし、おっしゃる通りこの川辺の緑のとこだけが「雁来町」の全てで、住んでる生き物は雑草と雑木だけ。人口は驚きの0人。それでも札幌市的には「雁来町」と立派に地名の名づけられた「町」の1つなのだ。
本当にただの1人も住み着いた人間は居ないのか?テントはおろか掘っ立て小屋や竪穴式住居や、防空壕みたいに穴を掘ってその奥の方に住み着いた地底人の1人も存在しないのか?そんなことが気になったので、外の気温が29度ある日に苗穂駅から徒歩でトコトコ歩いて行って、見てきてやった。
実際に行って見た
件の地区に向かうにはJR苗穂駅で電車を降りて東にある豊平川のほうを目指して歩く。
地図で見る分にはどうってことない距離に思えたけど、実際に歩いてみるとこれが存外に遠い。GoogleMapの距離計測機能によれば1.5km近くあるらしい。
20分ほど汗ダラダラに流しながら、ようやく本題の場所にたどり着くことができた。
気になる街の光景はこのようなものだった。
奥に見えるマンションや民家は雁来町ではない。あれは菊水元町の建物。雁来町は俺が今立って写真を撮っている歩道から川の手前側にある低い木の生い茂ったあたりまでの範囲。
こちらの写真の右側に見える建物の建っている場所も雁来町ではなくて菊水元町。そこから橋で通じている左側のエリアも雁来町じゃなくて苗穂町。雁来町は俺が立って写真を撮っている場所のあたりから、右の川の傍まで。この範囲に建物は1件もない。
今度は少し川のほうに降りてみた。そうすると、とても平らに開けて草の禿げた道(?)のようなものが広がっているが、やっぱりその周辺に建物はなく、雑草が生えていたり、藪や種類のよくわからない木が立っているばかりだ。
スマホでGoogleMapを見てみると、俺は今雁来町の真ん中に立っていることが確認できた。どうやらこの草木のあたりが件の領域で間違いない。
周辺を良く見渡してみると、テニスコートがあってそこで多くの人の集まりがガヤガヤ騒がしくしていたり、川を見ながら一休みしているような数人の男女がいたり、サイクリングロード西から東へランニングしてる人がいたり、学生のような男の子2人が自転車を乗り回して何かの会話をしていたりと、一応人々でにぎわっていて活気を感じることができる。けれどもやっぱり建物は無い。
俺はここでさっきの写真の平場が気になった。というのも、あの広く奥に伸びた平場が俺には車道に見えてしょうがない。そばには国道275号線が並走しているけど、もしかしたらあの平場は旧国道で、昔は車道で周りにはいくつか建物があったんじゃないか?と勝手ながら推測したわけだ。
というわけで上の写真のいちから少しばかり東に歩いた。
うーんやっぱりどうも、只の河川敷にしては広く感じるし、地面の草の生えていないところが道っぽい。更に奥に進んで、橋の裏側まで行ってみる。
橋の裏側に来るとこんな感じ。ここで1つ発見。写真の真ん中に映っている紅白の棒は「スノーポール」だ。これは冬に道路が雪で埋もれてしまったときに、道路の両端の位置を指し示すオブジェで、北海道などの雪の多い地域ではよく見る光景。つまりこのオブジェそのものが、ここが「道路」であることを裏付けている。
とはいえ1言に道路と言ったって、歩行者用の歩道もあるわけだし、サイクリングロードのように自転車の道路だってあり得るわけだから、これだけでここが「昔の車道」とは断言できないけれども。
さらに奥へ行って見たけど、ここからはただひたすら草と木の生えてるだけだったので、ここで引き返すことにした。
西側を見てみると、札幌中心部のビル街を見渡すことができる。この光景がとても美しく感じる。
数年前の記憶だけど札幌中心部といえど、今日ほどは高い建物の数はなかったように思える。新幹線開発の影響かこの数年で札幌各地の再開発が一気に進んで、随分と街の光景が変わった。
数年前どころか90年代には今のJR札幌駅周辺の有様も全然違っていて、今や札幌の象徴とも言えるJRタワーすらなかったらしい。俺の生まれる何年も前から、てっきり当たり前に建っていると勝手に思っていたのでこの事実を知った時は少し驚愕した。
ただ、そう考えると札幌の街っていうのは数年ごとに見違えるペースで発展して、その有様を川のように流転し続けている。諸行無常というか、万物の流転というか、そんな意味の言葉がしっくりと当てはまる街。
その常に変わり続ける札幌の街に対して、おそらく今も昔も変わらないであろう豊平川の傍にずっと在り続けるのが雁来町なのではないだろうか。この町(?)それ自体も、ここに訪れる多くの学生や老人や、ランニングやハイキングの人たちも、きっと何年もずっとこの雁来町から目まぐるしく変わり続ける札幌の様子を観測しつづけているのであろう。
その観測の視点は今も昔も、おそらくずっと変わらないまま、初心のような心持で、進化しつづける街を見守り続ける存在というのが、俺自身なんだかとても美しいものに感じられた。
きっとまた数年も過ぎたころにここに来たら、また今までとは違う札幌の光景を観測できる。それでもこの雁来町自体は全く変わらずそこにある。札幌の進化を変わらず見守り続ける、仙人のような存在がこの豊平川にあるのだ。
なぜ人口0人なのか?
例のごとく、雁来町がどうしてこんな事態になっているのか俺はてんで存じていない。
そういうことなので、以前の南10条西2丁目と同じく、しばらくしたら(おそくても一週間以内には)この町の生い立ちを調査して、その結果をこの見出しの中に記載していく予定なので、またの更新をしばし待ってね。絶対ちゃんと調べて書きます。約束します。
【2023.9.12 追記】
調べてきました、ええ。
仕事の昼休みに近くの本屋で立ち読みしていたら、偶然にも札幌エリアの歴史の解説本が売っていて、衝動買いしてしまった。そして、その本には雁来町の歴史も詳細に解説されていたので、これを参考に要点をまとめようと思う。
そのためには、まず時間を明治時代の序盤にまで遡って、当時存在していた雁来村(現在の雁来町の前身)と、その周囲の地理を示さなければならない。
今の東区、昔の東区
まずは改めて、2023年現在の雁来町周辺の地図をGoogleMapより拝借する。
「豊平川緑地」という場所にピンが立っているけど、その周辺が現在の雁来町だ。
次に、場所は同じく今度は1896年(明治29年)頃の周辺地図を、俺自身が手書きで一生懸命書いて示す。
製作時間約5分の力作だ。すまないけど俺の作図技術じゃこれが限界の様だ。
何はともあれ俺が上記2つの地図の比較によって伝えたいのは。以下の事柄だ。
- 東側から「対雁(ついしかり)村」「雁来(かりき)村」「苗穂(なえぼ)村」という3つの村が順番に存在していたこと。
- 1896年(明治29年)は、豊平川が2023年とは全然違う場所を流れていたこと。
- 手書きの地図にはスペース上書ききれなかったが、苗穂村の北西に「札幌村」という、札幌市とは全く別の自治体が存在していたこと。
- 対雁街道という、現在の国道275号線の前身となる道路が存在していたこと。
以上の4点の情報を、もう1度手書きの地図に組み込んでみるとこうなる。
だいぶ見づらくなってしまった。というか右下のスペースいらなくね?とりあえず現在と過去の地理的位置関係は以上だ。
次に、上記地図に記されている「雁来(かりき)村」の歴史を簡単に書き記す。
雁来村の誕生
明治6年ごろ、当時の石狩川と豊平川の交わるあたりにあった「対雁(ついしかり)村」の住民が、そこより西側の豊平川周辺に移住する。この移住先の場所が、開拓使に「雁来村」と呼ばれ、開拓されていくことになったのが始まりだ。
ちなみになぜ対雁から雁来へ移住することになったのかというと、単純に「生活が不便だった」のが理由らしい。
それ以降は豊平川の改修工事、対雁街道などのインフラが整備され、この場所に内地からの移民が増えていった。
当たり前といえば当たり前だけど、いくら現在が人口0人だからといっても、昔は人々が定住していたわけだ。
4村の合併と札幌市の拡大
明治35年(1902年)になると、札幌村、丘珠村、苗穂村、雁来村の4村が合併し、「札幌村」として1つになる。
それから間もなくして札幌区(現在の札幌市の前身)の1部が「苗穂町」となる。これは現在にもある苗穂町と位置をほとんど違わない。
更に昭和9年(1934年)には、当時の札幌市が札幌村の一部地域を吸収する。そして、吸収された中の「旧雁来村」に該当する地域は「雁来町」と名付けられたそうだ。
札幌村の消滅と東雁来の誕生
昭和30年(1955年)になると、札幌市に吸収されていなかった札幌村の全域が、札幌市となる。
この時、昭和9年の時点で吸収されていなかった旧雁来村の場所も吸収されて札幌市となり、「東雁来(ひがしかりき)」の地名を与えられた。こうして札幌市の中に「雁来町」と「東雁来」という2つの「雁来」が存在することとなった。
この状況を地図で表すとこんな感じになる。
もはや何がなんだかわからなくなってきたけど、ひとまずは西側が水色に囲った地域が昭和9年に札幌市に編入した雁来町、紫に囲った地域が今回札幌市となり、東雁来と呼ばれるようになった地域というこを伝えたいわけだ。
そして、このあと間もなくして、雁来町の大部分はどういうわけか苗穂町に吸収されてしまったらしい。そしてこれも不思議なことに、なぜが豊平川の周辺だけを取り残したまま吸収していったようだ。
この取り残された部分には元々民家がない。そういうわけで、これは少々言葉が悪いが、人の住んでいる部分を他の町に根こそぎ食われ、人の住んでない食いカス部分だけを残されたことにより、見事人口0人の街ができあがったという経緯のようだ。
ちなみに1941年ごろには、以前より行われていた豊平川の大規模な改修工事が完了し、今と同じ形になったらしい。そして1980年ごろに現在の雁来町を横断する雁来大橋が架けられて、現在(2023年)の景色にほとんど同じものになったようだ。
以上が現雁来町の生い立ちの解説だ。しかし、欲を言うと豊平川の改修の歴史については、もう少し丁寧に書き記したほうがよさそう。
ここまで粗末な作図や雑な文章に付いてきていただけたことには、感謝の気持ちの他にない。
それではまたどこかで会いましょう。
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