【札幌】中央区の超ミステリアスな街「南10条西2丁目」を歩く

札幌さんぽ

繁華街を歩いていれば得てしてオシャレで華々しく、光り輝くようにも見える服屋やら居酒屋やらカフェなんかが目に付くことがほとんどだろう。

「あの店の中はなんだか楽しそう、入ってみたい」「あのサンプルのラーメンうまそうだな、腹が減ってきた」などなど特に用事もなくても足が勝手にそちらの方向へ吸い寄せられるかのように動くことがある。

反対に、一見しただけでは何のことなのかよくわからない商業ビルやら専門店なんかもある。

ビルに入居している事務所の名前を読んでみてもやっぱりなんだかわからなかったり、「このお店は誰の何のための店なんだ?中にいるお客さんは一体どんな人なのか、そもそもお客さんなぞ入っているのか?」とさえ思うような、自分の知見からでは理解のしがたいようなお店なんかも存在する。

しかし、それが何であれそこに存在しているという事は、自分の知らないどこかしらのどなた様方にとっては、無くては立ち行かなかったり、存在していることがありがたく思われたりしているということで、しっかりした意義のある存在なのだろうと思う。

…しかし、札幌市には尋常の感覚では到底その意義の理解できない、というか全く感じられないような甚だ謎めいた「住所」というべきか「区画」が1つ(いや、もしかしたら2つ以上あるかもしれない)不可解にも存在している。

それが今回記事として取り上げる「南10条西2丁目」だ。

南10条西2丁目の概要

場所は札幌市中央区。南10条西1丁目の西側であり、南10条西3丁目から東に位置する。
当たり前だけど南9条西2丁目からは南側に位置して、南11条西2丁目からは北側に位置する。

全体像を把握しやすいように地図を持ってきた。赤い点線で囲まれた部分が該当区画の全域になっている。

・・・何かがおかしい。

お気づきの人もいるかと思うが、この区画には建物が1件も存在せず、すべて緑色の空き地なのだ。それに加えて縦横の広さもGoogleMapの測定機能によれば、一番長いところでもわずか30m程と狭い。

いくら建物が無いといっても掘っ立て小屋か竪穴式住居の1つくらいはあるんじゃないの?と思うかもしれないがそんな物もなく、生き物は雑草と雑木しか住んでいない、正真正銘の空き地なんだ。

こんなヘンテコな場所が自分の街にあったのでは、実際に行って見てそのシュールさを目に焼き付けないことでは立ち行かぬ」と思った次第で、わざわざトコトコ歩いて行ってみた。

実際に行ってみた

気温が30度くらいある中徒歩で向かって、写真に収めてそれを載せて「ほれ見たまえ、なかなかどうしてこんなマヌケな光景があったものか」なんて書こうと思ったけど、後から撮った写真を見返して俺の撮影センスが絶望的なことに気づいた。

どれもこれも全容を把握しづらくて、この土地の魅力が伝わってこない。本当のマヌケは俺だったってワケ。

そんな中でも「これは結構頑張って撮ってるな」と思えるものもあったので、それを載せてみる。

北方面から見たのがこれ。左右に1丁目と3丁目の交差点がある。中心に謎の石碑がそびえるばかりで、その他は本当に無。

南方面から見たのがこの写真。左側はちょっとわかりにくいけど、交差点で区画の区切られているのが確認できる。

遠すぎて全くわからないが、「そば処福住」の看板のあるビルの前にある信号には「南9条西3丁目」と書いた看板が下げられている。その右横の区画は「南9条西2丁目」だ。

こちらもわかりにくいが、信号の看板には「南10条西2丁目」と書いている。この写真は「南10条西1丁目」から撮影している。少し離れただけでも、こんなにこじんまりと見えてしまう。

少しズームして撮影。「南10条西2丁目」の看板の文字がはっきり確認できる。奥に見える区画は「南10条西3丁目」だ。

写真の撮り方が悪くいまいちその「迫力」の伝わらないところであるのが残念だが、それでもこの区画の異様さがそれとなくわかっていただけると思う。

繰り返すが、信じられないことに、この小さな土地1つのためだけに、わざわざ専用の住所が割り振られている。

うーんなんともシュールミステリアスな場所だ。

こうなった生い立ち

ここの歴史に関しては俺も正直なところ全くもって詳細を知らない。

・・・だからといって「わかりませんでした!いかがでしたか?」なんてろくでなしのブログの決まり文句を書いてしまっては俺のプライドも傷つくから、明日か遅くても今週中には調べてみて、わかったことがあればここに追記していこうと思う。

【2023/8/18 追記】

はい、調べてきました。

札幌市中央図書館がインターネット上で「デジタルライブラリー」というWEBサービスを公開しており、そこで札幌市の古地図を閲覧することができる。なんと江戸自体の頃までさかのぼった資料が掲載されている。なお、当然その画像を外部のWEBサイトに転載しようとするには権利者からの許可が必要なため、ここでは公開しない。

まず最初に特記すべきこととして、この三角地帯の北側の辺を通る道路(南9条と10条の堺の通り)は現在「菊水・旭山公園通」と名称がつけられている。
この通りは西に行けば旭山記念公園で途絶え、東に行けばちょうど地下鉄東西線菊水駅の場所にある五差路の交差点で途絶える。この通りを便宜上「菊水旭山通」と呼ぶことにする。

次に三角地帯の西と東の辺を構成する道路は、西の辺は「西3丁目通」と名付けられているが東側はGoogleMapを見ても特に名前がついていない。こっち側の道路は「西1丁目通」と呼んでしまおう。

西3丁目通と西1丁目通りについては、自分が確認したところによると1889年(明治22年)の頃には既にその形跡を確認することができた。そしてこの2つの通りは現在と同じ場所でT字路として交差し、鋭角を描いていた。ところが東西を横切る菊水旭山通はここではその形跡を確認できず、後の時代に整備された道路のようだ。つまり当時は三角地帯の北側の辺が不在だったわけだ。

ちなみに当時、件の区画周辺はほとんど(というか全部)樹林で建物の存在を見受けることができない。そして今でいう中島公園の南側には競馬場があったようだ。西1丁目通は今でいう地下鉄南北線幌平橋の駅のところで別の道とT字路を構成して途絶えている。推測だけど西1丁目通は競馬場へアクセスするための連絡道路として機能していたのではないだろうか?

話を元に戻すが、1906年(明治39年)の地図を見ると、菊水旭山通の前進とも言える通りの形跡がある。ところがこの通りは西は創成川の手前の通り、東は西2丁目通でT字路で途絶えており、西1丁目まで貫通していない。なのでこの時点でもまだ三角地帯を形成していない。

1910年の地図によればこの区画のすぐ西に「女子職業学校」と読める施設があったようだ。菊水旭山通はこの施設のすぐ前を通過している。

そして菊水旭山通が西1丁目通まで貫通し、例の三角地帯を形成していることが確認できるのが1918年の地図。このころにはその周りも建物が建って栄えていたようだが、やはりこの区画には何もなかったようだ。

…以上がこの区画の生い立ちとなるわけだが、なぜわざわざこの場所に固有の住所が割り振られているのか?結局そこに関して詳しいことはわからなかったので、推測で語ることにする。

1921年になるとこの場所に石碑が建設されることになる。これは現存する「木下弥八郎」の記念碑そのものだ。

この木下弥八郎という人は札幌市にとって英雄のような存在で、当時の札幌開拓にとても尽力していたようだ。

そんな英雄のような人の存在感を際立たせるために、この三角地帯を「記念碑の専用の区画」として、わざわざユニークな住所まで割り振っているのではないか?と思った次第だ。

ただし、これはあくまで推測に過ぎなく、きちんと調べれば真なる歴史を掘り出すことができるかもしれないので、これに関してはまた継続して調査し、わかったことをまたここに記していきたいと思う。

それと文字だけじゃやっぱりどうにもわかりにくいから、当時の地図を参考にした絵とかも拵えてもっと位置関係をわかりやすく理解できるようにもしたい。

今回の調査に関しては以上だ。

相変わらず誰のための記事なのかてんで理解に苦しむコンテンツを作成してしまったけど、俺は結構楽しめたしあまり深く考えずにこの自己満足の極まった記事を投稿することにする。

それではまた会いましょう。

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